チリ・バルディビア1960年、世界で最も大きい地震M9.5の証言

0

 

1960年5月22日、歴史上世界で最も大きい地震M9,5がチリのバルディビアで起きました。死者2500名、タルカからチロエまで揺れは感じられ、海岸線を津波が襲いました。

その日は快晴で、長い雨が上がった喜びにJaime Sotomayorは自転車にまたがりSaval公園に向かいました。Pedro de Valdivia橋を渡ろうとした時、身体が飛び跳ねました。

「あの橋を渡ろうとしていた。」と、地震から57年後Sotomayor氏(69歳)は語ります。隣には、Carlos Vargas氏(84歳)が同行します。

橋を渡る前に感じた動きは、大地震の前の揺れでした。揺れたので、橋を渡らず公園を諦め、街に戻りました。この事前の揺れによって、多くの人が命を助かりました。家屋やシアター、レストランから出て屋外に退避したのです。

15:11分、大地震はやって来ました。

その時、地球上で記録されている最も凄まじい地震の10分間が始まったのです。規模はマグニチュード9,5、距離にして数キロメートル、タルカからチロエまで揺れは感じられました。地表は約40メートル移動し、バルディビアは約2メートル沈みました。

揺れの後の津波の高さは15メートルに及び、チリ全国民の3分の1が影響を受け、ハワイと日本でも津波が観測されました。

「私は両親の家にいて、とっさに妻と地面に突っ伏し、立ち上がることができなかった。」、思い出しながら、笑いつつCarlos Vargas氏は語ります。

身の毛のよだつような経験であったにも関わらず、生存者はあの悲劇のことをあまり劇的に話しません。2500人の死者と、100万人のチリ人が住むところを無くしました。街を見渡すと、現在でも沈んだ農村地帯や放置されている古い建物が確認できます。

地震は体験者の目にだけ写っているお化けのようでした。

「自転車での帰り道、消防署のタワーが「おきあがりこぼし」のように揺れ、電線は至る所で放電していました。親戚の伯母のところに向かい、柱が倒れて来ました。爆弾のように地鳴りが聞こえ、まるで空洞の板の上を岩が転がっていくようでした。」

「道路の塗装は波打ち、歩道の敷石は宙に浮き、落ちては砕けました。地表の波のようでした。いななきながら馬は走り、牧師が「この世の終わりだ、キリストがやってくる。」と聖書を手にして叫んでいました。」

「可笑しいけれど、本当にそうだった。まるでこの世の終わりのようで、幅10メートルくらいに裂けた地面、崩れた家屋。前日のコンセプシオンの地震は多くの人に警戒を与えていました。」

「地震が起きたのが月曜日だった場合、もっと多くの犠牲者が出ていたと思います。高校も工場も崩れてしまいました。母の家は、真ん中から真っ二つに割れ、中心街は破壊されました。崩れた瓦礫の下から亡くなった人々が発見され、手押し車に積み重ねられました。河を渡っていたCCUの船は崩れ去りました。」

当時19歳だったFresia Briones氏の経験も似ています。彼女は両親の自宅で地震の瞬間を迎えました。自宅はドイツ様式の3階建でした。

「皆んな列に並んで外にでるところでした。兄弟に引きとめられた瞬間、家の中の石の暖炉が3つ崩れ落ちました。命を助けられました。ベテランであった祖母はパニック状態で家を出て、力いっぱい木にしがみつきました。まるで彼女が木を揺らしているように見えました。その家はGeneral Lagosにあったので、河から数メートルしか離れておらず、その後洪水に見舞われました。」

孫のEmilioのオモチャに囲まれながら、リビングで語るFresia。

「いつまで続くのかと誰もが問いかけていました。この後には何が続くのかと。本震の後も多くの余震が続くので(1968年まで500回を超える余震が起きたと言われています。)、また床に倒されるような強さの揺れになるのではないかと不安でした。うなり声のような音が響き、海岸線では地表が開いたり閉じたりし、隙間に挟まる人もいました。素晴らしい快晴だったので、多くの家族連れが散歩を楽しんでいたのです。」

電気のスイッチ

「続いた時間が信じられない。」

エネルギッシュなRubén Rivas氏(77歳)は、当時ラジオBaquedanoのアナウンサーをしていました。

「あの時私はオートバイで移動していました。そのオートバイは乗り捨てることになりました。軍事連帯の前にあった両親の家に走って向かいました。地面の動きが強くて柱とぶつかりました。実家に両親は不在でしたが、弟と祖母を助け出し空き地に向かいました。その空き地には、後で軍隊のキャンプが建設されました。」

「あたりを見回すと。。。」、話途中、一休みして笑みを浮かべるRuben氏、

「笑っているのは、信じられない光景だったからです。パニック状態でしたが、地震の10分間に酔ってしまったようでした。色々なものを見ました。両親の家は隣の家とぶつかりあっていました、そして空には不思議な現象が起きていました。空が脈打ってるようでした。暗くなったり、明るくなったり、まるで心臓の鼓動のような、誰かが電気のスイッチを押して遊んでるかのように。途端に、大きな音が響いて、キノコ型の埃を舞い上げながら目の前の家が崩れ落ちました。」

「とても衝撃的でした。」、「そういえば、地震の間に2度家に入りました。40年代に製造されたラジオと壊れてしまうかもしれないと思って地球儀を持ち出しました。父のお気に入りでした。長い10分間で、世界が終わるような気がしました。Condell通りとPicarte通りに着くところにあった、ドイツ人が経営していた2階建の金物屋が沈んで、2階が1階になってしまったのを覚えています。」

地震の証言をしてくれたFresia氏、Carlos氏、Jaime氏、Rubén氏の4人は幸運にも地震で家族を亡くしませんでした。しかし、1960年5月22日の地震以降、河岸段丘と人口充填材で建設された街は死んでしまったと考える点で4人は一致します。

「当時のAlessandri大統領は来ませんでした。地震が起きて直ぐ、襲撃、略奪、強盗を防ぐためにAlfonso Cañas将軍は襲撃予防地域として政令をだしました。しかし政府は真面目に取り組まなかったと感じます。バルディビアはチリ1大きいビール工場を持ち、4つの皮のなめし工場、チリ全土の列車のレールと枕木はここで製造されていました。プエルト・モンが小さな港町に過ぎなかった頃、バルディビアは工業の街でした。そして破産しました。そればかりか、Riñihue湖の排水路がふさがってしまったため、浸水が8メートルに達し、街が沈むと噂されたのです。」

産婦人科医のSotomayor氏は思い出しながら語り続けます。当時の住居の80%以上が被害を受け、バルディビアの中心街では、ビル8棟だけが構造上問題ありませんでした。

「バルディビアの貧しさは、街全体の荒地で目撃されます。」

地震後、生き延びた人々に待ち受けていたのは夜通し降った雨でした。仮設テントでの就寝と、人づてに聞こえて来るCorralの津波の被害、Riñihue湖の氾濫の危険性。

「その夜、眠りついた人はいませんでした。河の水は増える一方で、余震も止まりませんでした。」

「バルディビアは大きなキャンプ場のようでした。多くの人々が住む場所を失い、水道も電気も無く銃声が聞こえました。」

4人の証言者の中で、Rubén Rivas氏だけがCorralの津波の映像を見たことがあります。

「海に浮いてる家が見えました。波が上がったり下がったりしていました。衝撃を受けました。まるでバルディビアとその周辺が爆撃にあったようでした。」

 

引用: Valdivia 1960: Crónica de los 10 minutos más largos de la historia – La Hora

You might also like More from author

コメントを残す