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ビオレタ・パラ「ラテンアメリカ・フォルクローレの母」〜 情熱的な女性の生誕100周年

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ビオレタ・パラの代表作「グラシアス・ア・ラ・ビダ」は最も知名度が高く、スペイン語圏で思い出される曲です。作曲家のチリ人ビオレタ・パラは、多くの専門家から「ラテンアメリカ フォルクローレの母」と尊敬されています。その理由は、この地域でのこのジャンルの音楽を促進し改革した人物だからです。

ビオレタ・パラは1917年の10月4日に誕生しました。ちょうど今日から100年前、ビオビオ州のニュブレ地区のチリで重要なアーティスト家族の中に生まれました。パラ家は、フォルクローレ、詩人と俳優業のゆりかごとして知られています。

ビオレタの音楽への情熱は9歳でギターを覚えた時に始まり、最初の12曲を作曲しました。音楽活動は1937年のサンティアゴの多くのバーでの引き語りで開始しました。彼女の人生の大半は国内と海外への旅行で占められており、その経験は歌と絵に偉大な文化的要素とチリ社会の理解を与えました。

「新たなチリの歌」として知られる50年代の文化と音楽運動によって、チリ国内の公衆のフォルクローレは改革されました。最も重要な代表者がビオレタ・パラであり、その他にもビクトル・ハラ、パトリシオ・マン、ティト・フェルナンデスなどが知られています。

1956年、パリへの旅行中、Le Chant du Mondoレコード会社との初のアルバム「チリの歌」で数曲のフォークソングを収録しました。そのアルバムによって彼女の名前と歌はヨーロッパで広く知られるようになりました。

 

 

ヨーロッパ滞在期間中に人生最大の恋に落ち、音楽学者及び人類学者のGilbert Favreとジュネーブで一緒に暮らし始めました。この生活が「コラソン・マルディト」、「エル・ガビラン・ガビラン」、「ケ・エ・サカド・デ・ケレルテ」が生まれるきっかけになっています。

 

 

ビオレタは自分の全ての感情を歌詞に込め、その多くはその時の彼女の心情を歌っています。彼女の最後のアルバム「ラス・ウルティマス・コンポシシオネス」(1966年)には、彼女の音楽人生で最も有名で色々なバージョンがある曲、「グラシアス・ア・ラ・ビダ」が含まれています。この歌は、「人道的な賛歌」としてフォルクローレ業界に最も影響を与えました。

 

 

ビオレタの濃い生き方は、彼女を感情面で脆い人間へと変化させました。多くの恋愛と報われない経験を繰り返し、1967年の2月に決定的な決断をします。ビストルを手にし、自ら人生の幕を下ろしました。彼女の死によって、この大陸のフォルクローレの歴史の分け目となる線引きがされました。

 

女性としての一面

 

聖女のような母としての存在がアピールされますが、ビオレタはとても情熱的な女性であり、数多くの恋愛と別れを重ねています。

1938年にビオレタが歌うバーの常連客で鉄道員のルイス・セペダと結婚し二人の子供(イサベルとアンヘル)を授かります。しかし、自由奔放で女性軽視のルイスとビオレタの性格が合わず、結婚生活は破綻します。

1949年、ルイス・アルセとの付き合いを開始し1950年に再婚します。二人の子供(カルメン・ルイサとロシタ・クララ)を授かりますが、ビオレタがヨーロッパ公演を行なっている間にロシタ・クララは亡くなります。その出来事とビオレタの不在が多いことから結婚生活は終わりを迎えます。

1956年、パリ在住期間中にスペイン人の若者パコ・ルスと恋に落ち、チリに戻る前に自分のギターをプレゼントしています。

1958年、コンセプシオン大学に勤めている時に画家のフリオ・エスカメスと親密な関係になります。

そして、43歳の誕生日を迎えた時に最後で最大の恋をする相手、スイス人のジルベルト・ファブルと出会います。18歳の年の差を気にせず、別れがやってくる1965年まで、ビオレタは彼にのめりこみました。別れた後も関係修復のために彼の元を訪れ、実りない試みと、美しく痛い作曲の結果、ビオレタは彼の事を諦めます。

ウルグアイ人音楽家、アルベルト・ザピカンとの友情が彼女の気持ちを多少は癒したと言われています。

 

 

情報源: Violeta Parra, 100 años del nacimiento de la madre del folclor latinoamericano

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